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明治維新150周年の今、幕末を外観する

6000字に及ぶ大作を書き上げたのに間違って違うものを上書き保存してしまった失墜の大先生です。お久しぶりです。

 

失墜の中で”大先生”と呼ばれる由来、”歴史”の記事を認ることにしました。

・歴史を8年学んだのに全く関係ない業界へ進んだため、少しでもこの知識を誰かのために還元したい。

・自分にとっての備忘録。(やらないと忘れる)

最近、とても考えていたことです。

 

主に受験生とか、歴史好きな人に見て欲しいので専門性高めを攻める方向です。

もちろん、旅行の情報取集/一般常識クラスにも対応した記事にできたら良いと思いますが、主軸は前者に置きます。記事更新は週に1回は投稿したいと考えています。

 

1本目ということで今年は2018年、明治元年の始まった1868年から150周年。幕末という時代をサクッと外観してみようと思います。

※個人的見解です。間違いも多々ありますがご了承ください。

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下田にペリーが上陸したとき

幕末について

幕末の始まり

【幕末】とは当然ながら徳川幕府の末期を指すのですが、いつから始まるのかということについては様々な見解があります。山川日本史Bの教科書ではペリー来航から先を「近代」の分野で扱っており、1853年ペリー来航を期に幕末が始まったとするのが一般的見解かと思います。

しかし、歴史学の世界ではもっと幅広い見解があり、水野忠邦の天保の改革が失敗したあたりからを幕末としていたり、徳川吉宗の享保の改革以後から幕末が始まるなんて見解も耳にしたことがあります。まず、【幕末】はそれくらい始まりが曖昧な言葉なのです。

 

この記事では、公の見解に則り1853年を【幕末】の起点として外観していきたいと思います。

主要な出来事

1853年、ペリー来航。翌年に日米和親条約締結。

1858年、日米修好通商条約締結。同年、井伊直弼主導での安静の大獄。1860年、桜田門外の変。

1862年、公武合体反発による坂下門外の変。その後の文久の改革。

1863年、生麦事件とそれによる薩英戦争。

1864年、禁門の変による長州征討、1866年第二次長州征討。

1867年、大政奉還。江戸幕府の終焉。

1868年、鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争/明治改元。

参考:山川日本史B

 

知っておきたいこと

①内憂外患

内憂外患とは、「国内の憂いと国外からの圧力、中にも外にも対処すべき問題がある」の意味で水戸藩主徳川斉昭が12代将軍家慶へ伝えた言葉。開国以前の日本において西欧列強からの貿易交渉の増大と天保の改革失敗による内政の悪化など、幕末前夜の情勢を示す重要な価値観です。

関連:『戊戌封事』

②尊王攘夷思想

幕末以前より存在した思想です。尊王、つまり「王を尊び」、攘夷、「外夷を攘(はら)う」を意味しています。開国によって外国との貿易を始めた日本では諸外国に対しての反発が強くなり、尊王(ナショナリズム)と攘夷が結び付いて夷人を日本から追い出そうという思想が強くなりました。のちに攘夷の不可能を知ったことで倒幕のエネルギーとして転換していきます。

③公武合体

14代将軍徳川家茂と和宮の婚姻によって公(天皇家)と武(徳川家)を結びつけることで挙国一致体制を目指したもの。この問題は根深く、家茂の将軍就任以前の南紀派(家茂)と一橋派(慶喜)の将軍継嗣問題やその後の修好条約勅許問題、さらには②の尊王攘夷思想とも関連してきます。

 

海外情勢にみる時代背景

産業革命と列強の植民地拡大

江戸幕府崩壊へ至る原因は多数存在していますが、近年流行りの”グローバル”な観点から外観します。

最大の起点は18世紀後半イギリスで興った産業革命が挙げられます。蒸気船の発明によって航海技術は劇的に上昇し、西欧列強各国は挙って植民地拡大とキリスト教信仰の拡大を狙ってアジア・アフリカ・南米へと勢力を拡大。日本も例外ではありませんでした。

 

ペリー来航の背景にも西欧列強の影響があり、当時のアメリカは独立したばかりの新興国のためペリーは新規開拓の一貫で日本を訪れています。どこの国も植民地開拓に必死だったのです。その後、アメリカは南北戦争勃発で日本への影響力を弱めますが、アメリカの後には薩英戦争や下関占領を経てイギリスが薩長と接近。一方イギリスと敵対状態にあった第二共和制フランスは幕府側を支援するという状態になります。

 

中国の植民地化

日本の視点で特に影響を受けたのは隣の大国清がアヘン戦争でイギリスに大敗し、列強による進出が進んだことでしょう。こうした情勢はオランダ国王親書を通して日本の幕閣へも情報共有がなされており、異国船打払令を撤廃し、薪水給与令へ切り替えた背景にもこうした列強の力に危機感を持っていたことが示されています。

 

また1860年、清は再度アロー戦争で英仏連合軍に大敗を喫します。当時の日本にとって中華の中心たる大国清の情勢は大きな衝撃であったと言われており、倒幕運動と急速な西欧化を進めた背景にも清の洋務運動(清風と西欧の折衷を目指す)失敗を教訓としていたのではないでしょうか。

 

西欧列強が狙ったこと

各国との通商条約の締結以降、列強は何を意図していたかと言えば当然の如く「植民地化」です。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダ・・・日本における全ての利害が一致していた点でしょう。不平等条約締結、貿易の独占、現地の反発を強め戦争を起こし、政権の傀儡化を目指す動きはインドや中国で展開されたものと似たものが感じられます。

 

そのため薩英戦争や下関戦争といった薩長の攘夷の実行は列強の狙い通りだったのかもしれません。結果的に最も攘夷思想の強かったこの2つの藩は列強の力を目の当たりにしたことで攘夷の不可能を知り、幕末維新の主力を担うことになるのですが。

幕末に至る日本の社会情勢

藩政改革による雄藩の台頭

一方日本に視点を移すと天保の改革の失敗と、その後の雄藩の藩政改革があります。

 

幕末前夜の日本では諸藩の財政はどこも天保の飢饉や参勤交代に伴う支出増大で破綻寸前の状態でした。こうした状況を打開すべく各藩でも改革が実施されます。主要な藩政改革としては、佐賀藩や薩摩藩などが挙げられ、反射炉の建設や名産品の生産、蘭学に力を入れ藩財政の黒字化を成功させ、"雄藩"としての地位を高めていきます。

 

13代将軍家定没後の将軍継承問題において、水戸家出身の一橋家徳川慶喜を擁立した一橋派はこうした雄藩連合による政治体制を主張、紀州藩徳川慶福(家茂)を擁立し現行体制維持を掲げる南紀派との対立をも生み出します。

 

幕末の特徴として、江戸時代を通して政治への発言力が弱かった外様雄藩が改革の成功に伴い幕政への影響力を増してきた点があります。後に述べる公家勢力もそうですが、幕政から距離を置いてきた勢力が発言力を持ち始めるのが幕末という時代でした。

 

そして雄藩は幕末時の水戸藩、福井藩、広島藩、高知藩、佐賀藩、長州藩、薩摩藩といった倒幕勢力の中心を担うことになります。

 

公家・皇族の台頭

先日『公家たちの幕末維新』という本が中公新書から出版されているのを発見しました。まだ読んでいないのですが、幕末に"公家"が表舞台に登場していたからこその1冊でしょう。

 

朝廷は江戸時代を通して表舞台に出てくることはあまりなく、政治への発言力も大きなものではありませんでした。彼らが幕末に政治の舞台へ躍り出た理由としては先の条約勅許問題が挙げられます。日米修好通商条約締結に当たり、幕閣は孝明天皇へ条約勅許の承認を求めますが、上洛した堀田正睦が公家らの反発を受け勅許獲得に失敗。

 

江戸時代260年間を通して公家が幕府の政治決定にこうした大きな反発を示し影響を与えた事例※はなく、ここを転機として公家・皇族が政治の表舞台へと登場してくるのです。

 

公武合体とはこうした発言力を持ち始めた公家たちを挙国一致により制御する意味合いもあったのです。

※後水尾天皇の無許可譲位/紫衣事件など

 

市場経済の悪化

通商条約締結により安価な西洋製品が市場に流れ込み、加えて金の海外流出も深刻で江戸市場経済は超インフレーションを引き起こしました。

 

幕府は金の流出への対策として貨幣改鋳を実施し、小判の金含有率を低下させ、金銀交換比率を海外水準へ合わせたことで貨幣価値が低下し、物価が高騰します。こうした市場経済の乱れは海外貿易への更なる不信感を招き、攘夷の風潮が広く庶民にまで広がる契機となっていきます。

 

"維新"とは誰のためのものか

ここまで幕末のバックグラウンドを個人的見解で外観させていただきましたが、幕末の主役とは誰だったのでしょうか?テレビや漫画などでは下級武士たちの活躍が描かれ、幕末維新の中心は坂本龍馬、伊藤博文、木戸孝允などの下級武士と思われがちですが、本当にそうでしょうか?

 

もし下級武士が蜂起し、倒幕の主力であったのならば明治という時代は彼らにとって最大の利益が還元されて然るべきと思うのですが、明治以降最も利益を剥奪されたのは「下級武士」です。今まで給料の支払い元であった幕府・藩の消滅により実質無職状態となり、秩禄という形で新政府から支給も得ますが、微々たる額面にしかなりません。武士身分も消滅し、身分の差異も表面的にはなくなったため、下級武士が真っ先に困窮しました。

 

その結果として九州を中心に士族の反乱が引き起こされます。士族の反乱には西日本各地の困窮も背景として存在し、雄藩と呼ばれた西日本各地の領地は藩政改革により経済力を吸収され尽くしていたと言われています。なぜ首都が京都ではなく江戸(東京)になったのかと言えば、江戸には幕府の求心力低下に伴いそれなりの地回りな経済力が存在していたからとも言われていて、こうした東西格差も士族の反乱を助けたそうです。

 

では実際に最も利益を獲得したのは誰かというと”大名”なんですね。

幕末期にはどこの藩も借金に溢れ、破綻寸前の状態でした。幕藩体制の崩壊によって藩という組織も消滅しましたから、借金も実質踏み倒された形になります。それどころか元大名には多額の秩禄が支給され、今現在に至るまでその経済力は衰えておりません。

 

大名、公家の子孫たちは実に重要な職務を未だに担い、政治・経済・学問・外交・・・様々なところで活躍をしております。こういう視点で幕末を外観すると教科書的な見え方も変わってくることでしょう。