猫の恋やむとき閨の朧月

映画が中心/みんなの趣味を好き勝手に発信

二元的支配体制の解消

「毎週更新したい!」とか言いながら2週間も空いてしまいました。

3連休を利用して韓国・ソウルへ行っていたので記事が書けなかったという言い訳をしておきましょう。ソウルで「朝鮮王朝」に関する本を仕入れてきたのでそれについてもまた記事にしたいなと考えています。

 

さて、早速ですが二元的支配体制(二元政治,二元支配)という言葉をご存知でしょうか?言うなれば1つの国内に2つの政治主体があるような状態です。

日本の歴史では平安時代末期から江戸時代にかけてこうした支配体制が長い間存在していました。元々古代から政治を摂ってきた天皇・貴族の政治体制と将軍を頂点にする武士の政治体制。ここを少しだけ記事にしてみようと思います。

f:id:w-miomio-o:20180929165855j:plain

 1160年、平治の乱での三条殿焼き討ち (参考:平治の乱

 

二元的支配の始まり

武士の台頭

教科書をダラダラと時代順に見ているとあまり気づかないと思うんですが、時代が下るにつれて平安時代までに「貴族」と呼ばれていた人々の呼称が「公家」という呼称に変わっていきます。いつから変わっているのか日本史の教科書を確認してみると鎌倉時代からは「公家」という言葉が使われており、政権を担い始めた「武家」に対する朝廷(公-おおやけ)に仕える「公家」という位置付けになっています。

 

武家の台頭が始まったのは藤原道長・頼通の時代のすぐ後のことです。天皇の外戚として圧倒的栄華を誇った藤原北家政権の後に、藤原氏を外戚としない天皇による親政が始まり、さらに自分の子孫に皇統を継承させるために院政という政治形態へ変容を遂げます。

 

また、この時代には貴族同士の権力争いに武士が動員されることが増加してきた時代でもありました。

特に天皇位を譲位した上皇は朝廷制度から独立した支配機構・院庁を持ち、当時盛んに行われていた僧兵の強訴に対応すべく院庁の警備に宗教との関わりの薄い武士を途用しました。それが北面の武士と呼ばれており、武士が本格的に政治参加していく契機となっていきます。

※荘園の利権や政治利権に絡み寺社の僧侶が自分たちの要求を反映させようとするもの。御神体や神輿を掲げて押し寄せるため信心の深い貴族たちの悩みの種でした。

 

平氏政権

北面の武士として起用された中でも特に力を持ったのが清和源氏伊勢平氏の一族でした。各地での武士の反乱を制圧する中で天皇や上皇の信頼を得るようになり、荘園の寄進も集中し各地の武士団を一挙に統制するようにもなっため、この2氏の勢力は瞬く間に拡大していきました。

 

その中でも特に大きな力を持ったのが伊勢平氏・平清盛で、貴族の頂点である太政大臣にまで上り詰め、さらに天皇の外戚になることにも成功。朝廷の官位を一族で独占するようになっていきました。この勢いには排斥された貴族や源氏からの反発を産み結果的には1185年に壇ノ浦で伊勢平氏は滅亡することになります。

 

この時点での武士政権はあくまでも貴族化することで政権を掌握するスタイルで、前の時代に藤原摂関家が行った政権掌握と非常に似たものでした。

 

初めての武士政権

平氏滅亡後、源頼朝によって開かれた鎌倉幕府は初めての武家による政権でしたが、京には依然として天皇を中心とした古代以来の政体が根強く残っており、鎌倉時代を通して朝廷と幕府の二重支配による荘園の利権や税収に関する訴訟、鎌倉幕府政権への不満などが増加していきます。

 

頼朝直系の断絶後は北条氏による幕府政権掌握が進み、こうした動きに朝廷内での反発が高まり1221年には承久の乱が勃発。結果は後鳥羽上皇率いる朝廷側の敗北に終わりますが、これを契機として鎌倉幕府による朝廷統制が進んでいきます。承久の乱後には天皇位は後鳥羽系から後嵯峨天皇へと移され、その結果として幕府介入による両統迭立という体制が始まります。

両統迭立とは後嵯峨天皇の2人の皇子の系統(持明院統/大覚寺統)で交互に天皇位を継ぐことで、”自分の子孫に皇位を継承することを目的とする”院政の性質上、この両統による皇位継承を巡る確執は長く尾を引くこととなります。

 

武士政権への不満が爆発した承久の乱を契機として、武士による朝廷政権介入や監視が進み始まったのが鎌倉時代でしたが、決して一筋縄にはいかなくさらなる朝廷の不満を生じていくこととなります。

 

支配体制のせめぎ合い

鎌倉幕府の滅亡と建武の新政

蒙古襲来以降、御家人たちへの恩賞としての荘園配分が難しくなったことや、分割相続による訴訟の増大、さらに幕府のほとんどを北条一門で占められた得宗専制政治への不満も蓄積され、1333年に鎌倉幕府が滅亡します。

 

その中心を担ったのが大覚寺統の後醍醐天皇でした。後醍醐天皇は皇統を自身の子孫に継がせるべく鎌倉幕府の倒幕を幾度となく計画し、配流となった後についに倒幕を成功させ、天皇親政による建武の新政が始まります。

 

しかし、建武の新政の政治体制は鎌倉幕府の体制をそっくりそのまま真似た形であり、公家・武家の両者から反発を生み出しわずか2年で終了を迎えることとなりました。

このように鎌倉時代は武士だけの時代ではなく、天皇・公家もかなり権力や発言力を持ち、依然として独自に武士団を動員して戦が行われる時代でした。

 

朝廷の分裂・荒廃

建武の新政の崩壊の後は、持明院統を正当な皇統と担ぐ京の足利尊氏政権(北朝)と大覚寺統後醍醐天皇による吉野朝廷(南朝)に朝廷が分裂します。京の足利尊氏は室町幕府を開き、武家による政権が再開されましたが依然として奈良・吉野の天皇を中心とする南朝勢力も各地に存在し、両者の正当性主張は3代将軍足利義満の時まで継続されます。

 

足利義満は、南朝・後亀山天皇を説得により朝廷の合併に成功。鎌倉時代前期の両統迭立に始まる大覚寺統・持明院統の決裂はここに終了し、天皇は京の後小松天皇1人(持明院統)となります。

 

室町時代は、南北朝期の戦乱の増加とそれに伴う武士の成長はそれまで朝廷や貴族の経済基盤となっていた荘園の解体を促進。各地には守護大名と呼ばれる武士が成長し、保護を求める国司たちが公領(天皇・公家領)をそうした守護大名の元に寄進したことで朝廷の経済力・政治力は大幅に後退していきます。

 

さらに1467年に京で勃発した応仁の乱は、10年もの間京を舞台に戦が行われたため、朝廷はさらなる困窮へ陥いる契機となりました。時代区分ではこの応仁の乱を境に「戦国時代」という武士が政治の中心へ躍り出る時代となります。

武士の貴族化

戦国時代には室町幕府将軍は形骸化し、守護大名は独自の領地管理を行うようになっていきました。また、下克上の風潮も強まり鎌倉時代以降長らく地域を支配してきた守護大名や室町幕府側近が家臣などに領地を奪われる時代となります。中世は自力救済の時代と揶揄されますが、その真骨頂ではないかと思われます。

 

この時代の天皇・公家は荒廃した京を離れ、各自の持つ荘園に疎開したり、学問や芸事に励むことが主な仕事となりました。つまり、ほぼ政治から切り離された状態でした。

 

戦国時代の末に豊臣秀吉による全国統一がなされ、荒廃した京の復興と朝廷儀礼の再興が行われはじめます。南北朝時代・戦国時代を経て朝廷は力を大きく失いましたが、武士が政権を執る根拠としての”天皇”という存在があり、朝廷を再興させるということで秀吉の力を証明しようという意図もあったと思われます。

 

また、秀吉は各大名を朝廷における公家と同じ位置付けにすることで家格を示し、武家を統制しようと試みました。今は五大老・五奉行制と教科書では呼ばれていますが「公家成大名」とも呼ばれており、秀吉自身も関白に就任・各大名も官位を以って家格を示すということをしていて、政治体制としての古来から続く朝廷制度が礎になっていました。

 

二元的支配の完全な解消

禁中并公家諸法度の制定

江戸時代になると、朝廷は完全に幕府の管理下に置かれるようになります。

ここに実質的な二元的支配は解消され、武士(徳川幕府)が朝廷より上位にある体制になったとされます。その第一歩が「禁中并公家諸法度」の制定です。この法令では朝廷の仕事や公家の仕事・生活が事細かに設定され、さらに「諸社禰宜神主法度」「諸宗寺院法度」も制定、朝廷と関わりの深い諸寺社へも統制が強められました。当初は御水尾天皇による抵抗や、尊号一件などの法度違反もありましたが法度を根拠に幕府が朝廷の決定を否定したことで、「天皇の決定に対しても力が及ぶ存在」として将軍権威が示されます。

 

さらに家康廟である日光への公家の社参を儀礼化、朝廷儀式の復活、宮家の創出など、江戸時代前期は将軍の力が朝廷にまで及ぶことを示すことで権威を示すことが多く、将軍権威の証明としての朝廷という役割があったように感じられます。(個人感想)

江戸時代の朝廷

以上のように江戸時代前期に完全に政治力を喪失した朝廷では一体どのような江戸時代を過ごしたのかというと、基本的は家職・学問・日記・儀礼などが皇族・公家の主な仕事でした。私も以前・某省庁の書庫に入らせてもらったことがあるのですが江戸時代の公家の日記量は実に膨大で、内容も1日の出来事が非常に事細かに記されています。

 

興味のある方がいたら、ぜひ以下のURLより閲覧申請をしてみると良いでしょう。(承認が出るかはわかりませんが・・・)

http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shinsei/toshoryo.html

 

江戸時代の公家・皇族は、現在の京都御所がある場所を中心に非常に狭い範囲のみの居住に限られ、移動できる範囲も京近郊に限られていました。古来から続く天皇・朝廷とその文化・儀礼を守ることを大義として存在した江戸時代の公家たちは政治の表舞台に登場することは少なくなりましたが、将軍権威の衰退と西欧列強により朝廷存続が危ぶまれた幕末に一気に彼らのポテンシャルが噴出し、明治という天皇を頂点に据える新時代が造られるに至りました。

まとめ 

①藤原北家政権の衰退

→天皇が力を回復

②院政の開始と武士の起用

→強訴への対応として武士が重宝

③平清盛政権

→院政下で武士の反乱を制圧し、巨大な武士団を形成

④鎌倉幕府

→初めての武士政権

⑤両統迭立の開始

→幕府(武士)が介入した皇位継承。

⑥鎌倉幕府の滅亡

→後醍醐天皇の親政=朝廷側が政権を一時的に奪い返す

⑥南北朝の動乱

→室町幕府の始まり(武士政権再開)と戦乱による荒廃、荘園公領制の解体が進む

⑦応仁の乱

→京が戦場となり荒廃。荘園は完全に解体され戦国大名の登場でそれぞれが独自の領地支配と拡大を行う。

⑧豊臣政権

→朝廷の再興と武士の公家化が進められる(朝廷制度に習った武士統制)

⑨武士による一元的支配体制の完成

→徳川将軍が朝廷の上位に立つことを示す

⑩江戸時代を通して天皇・朝廷を守ることが公家の主要な仕事とされる

→幕末のナショナリズム高揚の原動力へ

 

ざっくりとまとめると以上のような内容になります。

完全に頭の中を放出しただけなので間違ってることもあるかと思いますが、歴史の連続性というものが少しでも伝われば幸いです。

 

せっかく記事を書くならもっと参考になる本とかも紹介できたほうが良いですね。

次回からちゃんと紹介してみます。